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雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。

体は社会人、心は自由人。三十路間近のネコ好き。日記や日々考えたこと、社会問題、ときどきサッカー。

「私は不快に感じた!」は言論を規制する理由になるか

社会問題

果物がたくさん並んでいます

 

先日、ヘイトスピーチに関して、こんな記事を書きました。

この中では「ヘイトスピーチとは何か」に焦点を当て、今、ネットで話題になっている「アイヌは殺す」という発言がヘイトスピーチではないという結論を出しました。

 

さて、今回は「ヘイトスピーチではないとしても、誰かが傷つく発言は規制されるべきか」という問題を取り上げてみます。

 

「私は不快に感じた!」を理由に規制するとどうなるか

まず、思考実験として、「私は不快に感じた!」を全面的に認め、そう主張される発言全てを規制するとどうなるかを考えてみましょう。

・・・

まあ、それはそれはカオスな世界が出来上がりますね。

僕のブログのすべての記事に対して「不快に感じた!」と言われれば、すべて消さざるを得ません。

 

泣けますね、はい。

 

もしくは、「私はあなたのその発言を不快に感じた!」と言われたとき、「いや、僕は君のその指摘が不快だ!」となった場合はどうすればいいんでしょう。

よく分かりません。

 

こんなこと、わざわざ考えなくても分かっていたんですが、「私は不快に感じた」を無条件に認めると、こんなカオスな世界になるってことです。現実的ではないし、言論の自由もあったものではありません。

 

どういう状況に、言論は規制されるべきか

じゃあ、どういった場合に言論が規制されるべきかを考えてみますと、

  1. 不快と感じた理由
  2. 発言者の意図、状況
  3. 社会的背景

の3つが挙げられるかと思います。

例えば、件のアイヌ民族の問題であれば、もし仮にアイヌの方に面と向かって「アイヌは殺す」と発言した場合、これは明らかに不適切な発言だといえます。

なぜなら、面と向かって言われれば「自分に対しての殺害予告である」というのを真に感じることができますし、そうでないにしても自分に対して悪意を持って「殺す」と言っていることが明らかだからです。

 

では、今回の問題について詳細に分析してみると、このようになります。

  • 発言者はtwitter上で友人に向かって、「アイヌは殺す」と発言
  • 文脈としては、ゲーム内でのアイヌ民族のキャラが強すぎて、そのキャラを指して、もしくはそのキャラの一属性を指して、「殺す」と発言した
  • それに対して、「アイヌ」で検索した方がこの発言を見て、傷ついた

この問題について、「ヘイトスピーチだ!」とか「アイヌの人が傷ついた!」とか主張する人に疑問を持つ理由は

  1. 文脈から考えて、アイヌ民族を迫害するような、人種差別的な発言ではない
  2. わざわざ検索して探し出して、この発言を見ている

の2点です。

 

前回の記事でも紹介した方が、

みのもんたが女性キャスターの腰に手をまわしたとき、彼はそれをセクハラだと思っていなかった。しかし多くの人はその認識のなさに激怒し、それは間違いなくセクハラであると断じた。サッカーのファンが人種差別的な行動に出ればレイシズムとしてニュースになる。ではなぜアイヌに対する公の殺害予告にはこれほど寛容な人が多いのか。あまつさえそれを目にしたアイヌにまでローカルルールを押し付けようとするのはなぜなのか。

アイヌは異世界の住人ではない - はてこはときどき外に出る

と書いていて、サッカーでの人種差別の記事を紹介しています。

 

紹介された記事はこちらですが、

中身を読むと分かるように、特定の選手に対して「黒人奴隷はおとなしくしていろ」と言ったり、不特定多数の人が来るサッカー場に「Japanese Only」と掲げるのと、今回のアイヌに関する発言は同一視できるものではありません

 

黒人奴隷の件については、特定の現実の選手を貶める意図があるため、許されるものではありませんし、「Japanese Only」についても同様です。

一方、今回の発言はそもそも特定のアイヌの誰かを指すものではなく、文脈からは明らかにゲームキャラを指しています。

 

そして、「自分で検索して辿り着いた」という点については、僕個人としては、キャベツの千切りをしているところに指を出してきて、「指を切った!どうしてくれる!」と言っているようなものだと感じています。

 

『前後の文脈も見ずに「傷ついた」って言われても、そこまで配慮する必要があるのか?』としか思えません。

 

「アイヌ」だから特別なんでしょうか。

たぶん、そうなんでしょうね。

 

何が許され、何が許されないのかが分からない世の中

間違った発言をしたときにめった刺しにされる世の中も、人によってまったく異なる差別の基準も、当事者ではないのに当事者の代わりに「正義」を執行している人も、嫌いです

 

何がよくて何がダメなのか。

「タブー」として、言葉狩りをすることで何が変わるのか。

海外の話ですが、こんなことも記事になっていました。

 

僕自身、差別などあってはならないと思いますし、差別解消に向けて世の中が向かっていくことには何の異論もありません。

しかし、差別解消に向けて動くことと、悪意がない人間の失言を糾弾することは全く異なるものです。

また、特定の誰かが傷つくことと、一般的に規制されるべき差別も別のものです。

 

まとめ

結局、僕たちの発言が適切か不適切かというのは、前後の文脈とかその状況を詳細に分析しないと断定できるものではないですし、分析した結果、断定できない場合もあると思います。

 

僕は言論の自由というのは最大限に保護すべきであると思います。

確かに「ヘイトスピーチ」のような、明らかに誰かを貶める意図でもってなされた発言まで保護すべきとは思いませんが、ローカルなネタとしてなされた「アイヌは殺す」という表現について、規制すべきだとは思いません。

一方、『「アイヌは殺す」という発言はおかしい』という発言も認められるべきであるとは思います。

僕は、誰かが何をどう発言するのも自由だと考えますし、またその発言を批判するのも自由だと考えています。

「表現する」というのは、「考える」ことと同様、人間が人間であるために必要な行為であり、もっとも「人間らしい行為」であると思います。

 

衣食住があれば生きていけますが、やはり僕たちは言語を持っている以上、考え、それを表現し、コミュニケーションを取ることで人間たりえています

誰かの人権が現実に脅かされるのは防がないといけませんが、言論の自由というのもまた、僕たちが持っている基本的人権なんだと思います。

 

 

以上、本日もあめおど管理人がお送りいたしました。