PTAという「無償労働」でごまかすべきじゃない
こうやって少しずつ世の中は変わっていくんだろうなっていうのを実感している今日この頃です。
昨年の事例で挙げると、電通での過重労働からの自殺。
今までも過重労働とかそれが原因となる自殺っていうのはいくらでもあったと思うんですが、それが日本の情報発信の中心を担う電通で発生したとなって、国会でも本格的に議論が始まりました。
「残業時間を80時間以内にする」とか、そういう数値目標にどれだけの効果があるのかは分かりませんが、ないよりは断然いいと思いますし、まずは何でも一歩踏み出すことが大事。
今日この記事で書きたいのは、これも最近また話題になっているPTAについてです。
大阪市のプログラミング教育推進
まず、話しておきたいのは少し前に話題になった大阪市がプログラミング教育を推進するために、無償で協力してくれる企業を募集したことについてです。
このtogetterを見れば、それはもう批難の嵐です。擁護しているコメントを見つけるのも一苦労。
そりゃあ当然ですよね。労働者を守る立場でもある役所がこんな事業をしようとしているんですから。
ただ、僕がこれらを見て思ったのは
最近、部活動が教師の負担になっているという話もあるし、PTAも無償で運営されているはずである。大阪市の事業がこれだけ反対されるんだったら、部活動ももっと違った体制になるはずだし、PTAもすぐになくなるんじゃないの?
っていうことでした。
部活動もほとんど無給に近い状態でかなりの時間を拘束されるものですし、PTAも同じです。部活動にしてもPTAにしても学校ごとに大きく異なるでしょうが、負担が大きいところがあるのも事実でしょう。
「運動会」とかって本当に必要?
ここから本題のPTAの話に入るんですが、PTAっていうのは本当に必要な組織なんでしょうか。
PTAや地域のお手伝いがなければ、子どもの学校生活は、校外学習も体験学習もできない、展示会も運動会も音楽会も学芸会も保護者参観日を設けられない、授業参観もできない、本当に小規模なものになるはずです。
という意見も見られますが、じゃあそういう行事って全部本当に必要なんでしょうか。小規模ではダメなんでしょうか。
運動会を経験した子どもとそうでない子ども、授業参観がある学校とない学校、何がどう違うんでしょうか。
前者のほうが良い子に育って、後者のほうが悪い子に育つんでしょうか。
もしそうだとしたら、どこにどういう研究結果があるんでしょうか。
「いい思い出になる」という観点から考えれば存在意義はありますが、じゃあそれが運動会である必要性ってあるんでしょうか。授業参観である必要性があるんでしょうか。今の形式を維持する必要があるんでしょうか。
ここで言いたいのは、「運動会なんて必要ない!」ということではなく、「すべての家族が運動会を必要としているわけではない」ということです。
「運動会はすばらしいイベントだ!それを手伝わないなんておかしい!まともではない!」という意見もありますが、それが日本国民全員の意思ではありませんよね。
運動会なんていらないって人もいれば、むしろ嫌だっていう人もいるんですよ。
「無償」を前提としているからこそ予算がつかない
先ほども引用させていただいたPTA批判について思うこと その2 - 感想文を読むと、学校行事を行うにあたってPTAの果たす役割というのは大きいものだということが分かります。
しかし、それは逆に「PTAがあるからこそ、学校が対策を講じない」ということが言えると思います。
役所の予算って基本的には削って削って削られるもので、今さら新しく増やされるということは稀なことでしょう。
例えば、どこかの学校で「運動会の日に警備員を雇うのに予算を要求しよう!」となったとしても、「今までPTAにやってもらってたんでしょ?来年もそうしてもらって。だから予算はつけられません」となってしまうでしょう。
部活動のほうはもっと難しくて、あれは教師の異常なほどの奉仕の気持ちと時間があって成り立つものであって、日本全国で外部委託しようとするならばどれだけのお金がかかることでしょう。
どこかの教師がちょっと声を挙げるだけでは改革なんてできないし、最近は少し盛り上がりを見せていますが、本格的に国会で議論されるのは5年から10年先になるかと思います。
考えるべきはPTA主体ではなく学校主体
世の中的にはドラスティックに物事を変えるのは好まれませんが、僕は黒か白かで判断するのが好きなので、PTAも部活動もなくしちゃえばいいんじゃないかって思っています。
部活動についてはいざなくなってしまえば、地域のスポーツクラブとかスポーツジムがいくらでも参入してくると思います。人数もある程度見込めることを考えれば、金額もそう高くはならないでしょう。
また、採算が取れないマイナーなスポーツに限っては学校で部活動として活動すればいいと思うんです。
じゃあ、PTAがなくなるとどうなるかっていうと、学校側がPTAを前提としない計画を立てることになると思います。
PTAの会員はボランティアですが、学校や教育委員会で働いている人たちは仕事として従事しています。
PTAを前提とせずにどう運営していくかを考えるのも彼らの仕事のひとつです。
むしろ、PTAというボランティア団体があるせいで、彼らが怠けているとも言うことができます。(実際には多忙なんでしょうが、あえて「怠けている」と書いています)
PTAを擁護する人が言うには「文句を言う暇があるなら、自分自身でPTAの活動をスリムにできるよう努力しなさい!」ということですが、僕はまったく逆の視点を持っていて、PTAの活動をいかに簡素かするかっていう視点から考えるんじゃなく、学校側がどういうときにどれだけボランティアが必要となるかを見極め、学校側が人員集め、人員の選定等をする必要があるということです。
これ以上、先生の仕事を増やすことが、我が子にとってよいことですか?
ボランティアを募るためには、ボランティアを募る組織が必要です。
それが、PTA本部でした。
という意見もありますが、僕たちがやるべきなのはそうやって無償労働でごまかすことではなく、文部科学省に対して教員の増員を求め、ボランティアを必要としない体制にしていくことです。
学校っていうのはいじめの問題でもそうですが、世の中のルールというのがなかなか導入されにくい世界です。
いじめなんていうのはただの暴行や恐喝という法に触れる行為であってそれ以上でもそれ以下でもありません。しかし、学校の中では途端に「いじめ」という言葉でオブラートに包まれてしまいます。
それと同様、こんなにもPTAや教師の無償労働がなければ成り立たない組織など、世間にあるでしょうか。
この点から考えても、まだまだ学校社会には旧態依然とした体制が残っていますが、僕たちがしていくべきなのではその体制を維持するために何ができるのかではなく、その体制を壊すには何ができるかなんだと思います。
まとめ
どんな行動であっても「言うは易く行うは難し」なことは分かっていますし、PTA活動に力を入れている人、PTA活動のスリム化に尽力した人たちの努力を否定するつもりもありません。
ただ、ボランティアで運営されている活動というのは責任もあいまいになりますし、何しろボランティアで協力してくれる人がいなければ成り立ちません。学校という教育機関がそんなあやふやな体制で運営されていること自体が大問題なんですよね。
最初に書いたように、世の中というのは諸行無常ではありますが、その速度は速くもあり、遅くもあります。ブラック企業対策もようやく軌道に乗ろうとしているぐらいかと思います。
PTAやら部活動やらの学校そのものの改革にはまだまだ時間がかかるでしょうが、こうやって社会問題にしていくことで問題が顕在化し、より良い社会になっていけると信じています。
参考サイト
今回の記事を作成するにあたって参考にしたサイトを紹介していきます。