雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。

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少年法の見直しと投票年齢の引き下げについて

18歳や19歳ぐらいの少年(?)が残虐な犯罪をするたびに議論になる気がする少年法の存在。

「被害者遺族の感情を考えれば、少年法なんて不要だ!」という方もいらっしゃいます。

逆に、日弁連は「成人年齢を18歳に引き下げても、少年法は18歳、19歳にも適用すべきだ」と主張しています。

 

少年法の目的とは

まず、少年法を適用する年齢をどうするかというのを考える前に、少年法の目的を考えるところから始める必要があります。

 

本来、日本国憲法においては、成人も成人以外も平等に扱わなければなりません。 


というように、少年法は成人差別だ、という主張もできなくはないです。

 

しかし、やはり少年法というのは、未成年である子どもたちは「成人に比べ、更生する可能性が高い」といったところで、「罰を与える」という色合いよりも「更生を促す」といった色合いの方が強くなっていますし、これは世間的にも一定の理解を得ていると思います。

 

少年法を見てみると、第一条にはこう書いてあります。 

この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする。

少年法第一条)

 

少年法全体を分かりやすく解説するとこんな感じに。

少年法は少年の可塑性に着目しているとされています。可塑性とは、成長によって人格が柔軟に変化していくことであり、すなわち少年は成人よりも更生の余地が大きいことが期待されています。更生して社会復帰することが許せないと考える人もいますが、本当の更生とは自分が犯してしまった罪の重さと生涯向き合わなければならないことであり、罪と向き合いながら社会生活を送ることも、償いの一つという考え方もあるでしょう。

少年犯罪を防ぐのは「厳罰」か「教育」か 相次ぐ少年法改正の背景は (THE PAGE) - Yahoo!ニュース

 

成人年齢引き下げ議論


に書いてあるとおり、世界では成人というと18歳が標準のようです。

確かに、日本においても半ば義務教育と化している高校を卒業し、一人で生計を立てられるようになる年齢であると考えるならば、18歳を成人とするのも自然なことでしょう。

イギリス1969年、ドイツ、フランス1974年、イタリアは1975年に変更されています。その大きなきっかけは、学生運動を背景とした青年たち自身の声と言えるでしょう。「僕たちにも選挙権を与えろ、私達も大人として認めて欲しい」。国家と世界を変えようとしていた青年たちの大きな声が世界中で響き渡っていました。(上記ソースより引用)

とあるように、成人年齢の引き下げが一番大きく影響するのは選挙権だと思います。

 

選挙権を与えること

上でも示したように、日本国憲法において、成人であれば未成年であれ、差別をすることは許されません。

そう考えると、本来ならば日本国籍を持つ者(もしくは居住する者)には等しく選挙権が与えられるべきです。

 

しかし、そうなっていないのは、成人になるまでは適切な判断ができないと考えられているから、です。

僕たちは成長する過程の中で、いろいろなものを学び、成人になってようやく適切に自分で判断する能力を得られると認められています

ゆえに、選挙権は成人にしか与えられません。*1

 

日弁連の主張

最初の話、少年法に戻ります。

日弁連は、成人年齢の引き下げと少年法の関係について、以下のように述べています。

日弁連子どもの権利委員会幹事の斎藤義房弁護士は、少年法の適用年齢について、「個別の法律の目的、趣旨に沿って考えてほしい。選挙の投票を18歳からにするから少年法も引き下げる、という短絡的な議論はやめてほしい」としている。

「18歳には刑罰よりも支援が必要」日弁連が「少年法」成人年齢引き下げに反対を表明 (弁護士ドットコム) - Yahoo!ニュース

つまり、成人年齢を引き下げるからといって、自動的にほかの法律にその基準を適用すべきではないという主張です。

 

日弁連の主張は間違っている

と僕は考えています。

 

まず、そもそも成人になって選挙権を与えるということは、「成人=判断能力がある」という判断を政府がしたということになります。もしくは「成人=人格が形成されきっている」と言ってもいいかもしれません。

 

確かに、僕たちの健康を考えて制限されている飲酒や喫煙の制限は、その根拠が身体の成長度合いに置かれている以上、成人年齢の引き下げとリンクさせるべきではありません。

しかし、今回の話は「判断能力があるか」、「更生が可能なのか=まだ人格形成過程にあるのか」といったところになります。

 

であるならば、政府が選挙権を与えることを認めている以上、少年法の適用にリンク させるのもごく自然なことでしょう。

 

逆に、 日弁連が上記のように主張するならば「選挙権を与えるのもまだ早い」と主張するほうがいいと思います。

 

終わりに

ちょっと話は変わりますが、少年に厳罰を望むのも感情としては理解できるんですが、中途半端な厳罰(懲役20年)とかは、その少年の将来が大きく狭まってしまい、最終的に再犯に走ったりする危険性も高くなると思います。

社会秩序の維持を考えると、 更生に重きを置くのは間違っていないと思いますし、厳罰を望む声には疑問を抱いています。

 

まあ、更生が可能かどうかというのはまた議論の余地があるとは思いますが。

 

今日はこんな感じでーす。でわでわー。

 

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*1:これには例外があり、住民投票などで、15歳以上に選挙権が与えられている場合もあります。