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雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。

体は社会人、心は自由人。三十路間近のネコ好き。日記や日々考えたこと、社会問題、ときどきサッカー。

裁判員裁判を導入したからといって「市民感覚」だけでいいはずがない

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裁判員裁判が導入されてから6年が経ったようです。好奇心旺盛な僕としては裁判員に選ばれてみたいと思っていますが、やっぱり確率は低いみたいで、まったくそういう気配はありません。

 

さて、一審で裁判員たちが下した結論が高裁で覆るということが、最近何回かあったようで、それに対していろいろな意見が交わされているので、乗っかってみたいと思います。

 

東京都三鷹市で平成25年に発生したストーカー殺人事件で東京高裁が2月、「起訴していないリベンジポルノを過大評価した1審は誤りだ」として、東京地裁立川支部の裁判員裁判判決を破棄し、審理を差し戻した。また、裁判員裁判の死刑判決を破棄して無期懲役を言い渡した東京高裁判決が複数確定するなど、プロ裁判官による裁判員裁判への“注文”が相次いでいる。制度の原点といえる「国民感覚の反映」か、それとも「過去の量刑との均衡」か。今年で開始6年を迎える裁判員裁判は、より質の高い運用が求められている。 

 

裁判員が出した答えを破棄する高裁への疑問

さて、裁判員裁判導入の名目としては市民感覚を取り入れる」というものだったと思いますが、裁判員たちが出した結論が高裁で覆ることに違和感を覚える人もいるようです。

ただ、裁判員の中には最高裁や高裁の指摘に違和感を持つ人もいる。過去に東京地裁裁判員を務めたことのある女性は「自分の判決がどうなっていくのか、高裁の判断は気になっていた。自分の裁判で判決が変わることはなかったが、別の事件の判決が変わるのを見て『必死に考えた結果があんな風に変えられるのか』と違和感を覚えたこともある」と話す。(同ソース)

 

市民感覚を導入するための裁判員裁判で出した結論を、なぜ裁判官だけで審議する高裁が覆すのでしょうか。

 

裁判官は量刑の公平性を重視するけど・・・

昨年7月に最高裁が、傷害致死事件で検察側求刑の1・5倍の懲役刑を命じた裁判員裁判を追認した2審判決を破棄した判決では、「過去の大まかな量刑傾向を共通認識として評議を深めていくことが求められている」と、刑事裁判の前提である量刑の公平性を重視した。その上で、先例とは大きく違う量刑を言い渡す際には「根拠を具体的、説得的に示すべきだ」とした。

とあるように、先例とは大きく違う量刑にする場合には根拠をきちんと示す必要があると述べています。

これに対してネットでは「過去の判例を見て決めるだけなら人間じゃなくていい」、「裁判員の判決が破棄されるなら、まったく意味がない」、「そもそも民主主義である以上、裁くのも一般市民がやればいいじゃないか」といった意見が見られます。

 

はたして「市民感覚」だけでいいのか?

なぜ、過去の判例を参考にするかというと、「裁く人間によって不公平にならないようにする」という理由です。

ある裁判官は極端に女性に優しく、女性への量刑はごくごく軽いものでした。しかし、男性に対する態度は厳しく、他の裁判官より刑を重くする傾向にありました。

ある裁判官はミーハーであったので、芸能人に対しては刑を軽くし、無職やフリーターの犯行には大変厳しい処罰を課していました。

 

こんなことが起きてしまっては司法制度が狂ってしまいます。確かにある程度、裁判官の思想が入ってしまうのは仕方のないことです。人間ですから。

しかし、だからといって自分の考えのみで動いてしまえば、日本という大きな組織の中で不公平な事態が起きてしまいます。それを防ぐため、過去の量刑というのを参考にしています。

一方、過去の量刑ですべてが決まるなら裁判官は必要ありません。そこで、情状酌量の余地があるかなど、一定、人間でしか判断できない部分があるため、そこを審議するのが裁判官の役割とも言えます。

 

なぜ、民主主義的に多数決等で決めず、量刑を参考にしたり、プロである裁判官が審議をするかというと、上記のように加害者の公平性を重んじる必要があるからです。

日本の法律は、罪を犯した人間を更生することにしています。罪を犯したからといって、その人の人生のすべてが終わってしまうわけではありません。適切な刑を与えて、償わせ、さらには社会復帰させる使命があります。

 

一方、ここで言う「適切な刑」というのが、現状、もしかしたら「適切」ではないかもしれません。どうしても人というのは、感情的には加害者に厳しくなりがちです。しかし、現状は逆に加害者に甘くしすぎているのかもしれません

 

重要なのは
「今すぐに裁判員の意見を最重視すること」ではなく、「裁判員裁判を通じて、適切な量刑を探っていくこと」
だと思います。

不十分な根拠をもとに重い量刑になるとすれば、高裁にて「理由が不十分である」とされても仕方ないと思いますし、一方でそのような一審が続けば、司法も徐々に変わってくるかもしれません。

 

まとめ

僕たちはすぐに1か0の話に持ち込みたがります。「全」か「無」か。「意味がある」か「意味が無い」か。

そもそも何のために三審制にしているかというと、一審で出した判決が誤っている可能性があるからです。であるならば、今後も、一審で出た判決が高裁等で覆ることは十分考えられるでしょう。

一審が裁判員裁判で行われ、上告することが認められないなら、逆に僕たちの裁判を受ける権利が損害されてしまうことになります。

しかし、だからといって無意味であるというわけではありません。

比較的重くなった刑を上告しない場合は意味を持ちますし、それがまた1つの「過去の事例」になります。

今はまだそういう事例を蓄積する期間であり、助走期間と言えるでしょう。

 

こういう1つの事例を取り上げて「意味がある/ない」を議論しても無意味です。

裁判員裁判というのは確実に司法に影響を及ぼしています。もう少し長い目で見てみましょうよ。

 

今日はこんな感じでーす。でわでわー。

 

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