文学の奥深さと学校の役割
僕は小さい頃から本を読むのが好きで、まあまあそこそこ小説とか読んできました。「文学少女」と呼ばれるほどではありませんが。そもそも性別違うしね。
↓の記事では僕の読書遍歴を紹介しています。
ところで最近、村上春樹さんに質問をして答えをもらうっていうサイトがすごく人気ですね。はてなブックマークのページを見ると、このサイトで埋まってるときもあるほど。うざいと感じることがあることは秘密です。
その中で、こんな小説・文学に関する質問がありました。
私は高校の国語教師です。文学が好きで、国語教師になりました。
教科書に載っている作品にも面白いものがたくさんあります。
しかし、その面白さをうまく生徒に伝えられないんです。
というか、生徒はなかなか、まともに作品に向き合ってくれません。
漱石先生の『こころ』も、Kの自殺は許せん、「私」は卑怯者だ、で終わってしまいます。
どうしたら、文学の奥深さを理解してもらえるでしょうか?
それとも、文学の良さは教えられて理解するものではないのでしょうか自分の教師としての力量の不足を自覚しつつ、こちらに書かせていただきました。
(しーちゃん、女性、51歳)
村上春樹さんの回答については、サイトにアクセスして確認してみてください。
今回ひっかかったのは、国語の先生がこんな質問をするんだーってところです。
僕自身、好きな作家さんは年々変わってきていますし、読むジャンルも5年前と今では違います。たぶん、5年後、10年後はまた違う作家さんにはまっているでしょう。
そんな感じなので、昔はあんまり好きじゃなかった作家さんを好きになったりすることもありますし、イマイチ魅力を感じなかった作品の魅力に気づいたりもします。
例えば、僕は中学生のときに江國香織さんをよく読んでいたんですが、江國さんの作品は大人になってから読むものだと気づきました。不倫の話とか大人の恋愛とか理解できないこともないですが、やっぱり大人になってから読んだほうがいろいろと気づくことがあります。
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この先生は「奥深さを伝えたい」って思っているようですが、そういうものはながーい年月をかけて気づいていくものなんで、高校3年間で伝えようとしても無理ってもんですよ。
ってことをこの国語の先生は今まで気づけなかったのかなーって思ってしまいました、この質問から。
学校の役割って、そのすべてを教えることじゃなくて、その入口を教えることだと僕は思っています。
美術の授業で美術のすべてを教えることはできないし、数学の授業もしかり。
国語の授業においても「文学の奥深さは言葉で伝えられるものではない。でも、大人になっても読み続ける価値はあるし、読み続けることでしか奥深さは理解できない」ってことを伝えられたらいいんじゃないかなー。
そういえば、狂言師の野村萬斎さんでさえ、「狂言をやる意味は分からない。でも、それを理解するためには、狂言をやり続けるしかない」とおっしゃっていました。
小説も読み続けることでしかその奥深さを理解できないものだと思います。