子どもたちへの合理的配慮と障がい者、「ズルい」の問題、違和感について
何やら言いたいことをすべて詰め込んだタイトルになってしまいました。
以前から障がいを持った子どもへの教育についてモヤモヤした気持ちを抱いておりまして、そんな中で最近、発達障害のお子さんを持つ方のブログを見つけ、こんな記事を目にしました。
このブログではこの記事より以前に、「発達障害の子どもに対して、公立の学校は合理的な配慮をしなければならなくなった」という旨の記事を書いており、その中でこんなことを言っています。
「合理的配慮」の否定は障害を理由とする差別になるのです。
ということで、過度な負担等がないのであれば、障がいを持つ子供たちに対して、合理的な配慮をしなければならなくなったということです。
さて、この元の記事に対して、通りすがりの方がコメントを残していきました。そのコメントに対する回答が、最初に紹介した記事(合理的配慮は「ずるい」のか)になります。
これらのコメントや回答を読んで、やっぱりモヤモヤが晴れない気分で、むしろモヤモヤが濃くなった感もあります。
僕という人間について
僕は特に運動神経が良いわけでもなく、足は速い方でしたが、球技はそれほど得意ではありませんでした。まあ、それでも運動能力に偏差値があるとすれば、40~50ぐらいの間だったかなと思います。
だから、僕個人は運動能力という観点から考えて、大きな苦労はしてきませんでした
全然自慢ではないですが、勉強はよくできるほうでした。田舎ではありましたが、中学校のときは学年で一位を何度も取ったことがあります。
これは大人になってから自覚したんですが、僕は他人のこころを想像する力に著しく欠けてるんですよね。正確に言うと、気を使えば想像することはできるけど、それを現実として認識することが非常に難しいです。
ゲームの主人公のような気分なんですよね。他の人も自分と同じ人間なのに、どちらかというと「人間のようにプログラムされた何か」みたいに感じてしまいます。
僕の同級生たち
僕の幼稚園からの中学校の同級生の話ですが、知的障がいを持った女の子がいました。その子は知的障がいだけではなく、運動神経も人並みではなく、あんまり覚えてないですが、体力もあまりなかったと思います。
またこれも幼稚園から中学校の同級生ですが、ある少し色白の男の子がいました。その子は目に見える障がいは持っていないですし、特にそういう診断をされたことも聞いたことはありません。
ただ、運動神経は悪いですし、頭も良くはありませんでした。
伝え聞くところによると、その子は今はニートになってしまったようです
障がい者と健常者の境目はどこにあるのか
僕は中学一年生のときにクラス委員を務めていて、月に1回ぐらい、クラス委員の会議が行われていました。
そのときに何かの流れで障がい者の話になり、司会をしてくださっていた先生がこう言ったんです。
「私も障がい者だし、君たちの多くも障がい者なんだよ」
そう言われたとき、誰もがその意味が分からなかったんですが、そんな僕たちに向かってこう続けました。
「メガネをかけているってことは、それがなければ生活ができないぐらい、視力が悪いってこと。それも一種の障がいですね」
中学生のときの先生の発言なんてほとんど覚えていませんが、これは今でも忘れられません。
冒頭で紹介したブログによると、公立の学校は障がい者への合理的配慮を行わなければならないようですが、「合理的配慮」の対象は本当に「障がい者」だけでいいんでしょうか。
前述した僕の同級生で、障がい者ではないけど、明らかに勉強についてこれていない子がいました。
また、明らかに勉強についていけていないわけではないけど、少し授業のペースが速いと感じる子もいたでしょう。
水が怖くて、なかなか泳げるようにならない子もいたかもしれません。
また、集団生活という観点から見ると、僕自身、他人のこころが想像できず、他人と上手く関われなかった時期もありました。
合理的配慮を「ズルい」と感じる人たち
このブログには障がい者への合理的配慮に対して、「ズルい」と感じている方がその主旨のコメントをしており、ブログではそれに対して回答をしています。
みんな同じでないと許せないと思うのは、根底に(自分も我慢しているのにずるい)という気持ちの現れなのでしょう。全てにおいて元々持つ能力が等しいのであれば、それはずるいのかもしれません。しかし、障害を持つということは努力だけではまかなえない困難があるということです。これは視力が悪い子供に対して「眼鏡をかけるなんてずるい」というのと同じことだと考えていただければよいと思います。
それはずるいことなのでしょうか?眼鏡をかけた子供は視力のよい他の子供より多くのものが見えますか?
発達障害の一つである読字障害を持つ子供が、みんなと同じ教科書では読みにくいからタブレットで電子教科書を使うことがずるい配慮でしょうか?集中力に生まれつきの問題を抱えるため、みんなと同じ宿題をするために人の何倍も時間も努力も要する子が人と違った宿題で学ぶことがずるいことなのでしょうか?
目に見えない障害だから納得がいかないのでしょうか?
僕は障がい者への合理的配慮をズルいと感じる人の気持ちも分かります。
どう分かるのかというと、
- 「障がい者」という認定はされないが、学習に実質的な障害が生じている子へは配慮はされないのか?
- 他の者の権利を侵害してまで、配慮をしなければいけないのか?
といったことです。
①について言えば、例えば、ちょっと勉強についていけていないAくんがいて、そこに発達障害を抱えているBくんが転校してきました。
Bくんは発達障害という認定がされているので、正式に担任以外の人間がサポートに入ることになりました。
こんな場合、Aくんが「ズルい」という感情を抱くことを否定はできません。僕がAくんの立場だったら、ズルいって感じてしまうでしょう。
②について言えば、その子どもたちへの配慮の結果、授業のスピードが遅くなったり学習指導要領どおりにできなかった場合、他の子どもたちの学ぶ権利はどうなるんでしょうか。
↑のブログでは
支援学級の場合はその子供に合わせた学習進度にすることがある程度認められています。しかし、通常学級である限り、文部科学省が定めている学習指導要領に沿って授業が進められているはずです。通常学級の場合、クラスに障害児がいようがいまいが他の子供たちの学習が遅れることにはなりません。
と書かれていますが、本当にそうでしょうか。全国にいくつの学校があり、いくつのクラスがあり、何人の先生がいるんでしょう。
「合理的配慮」の結果、授業の進度が遅れる可能性は否定はできないはずですし、コメント欄においては、「授業中に声をあげるなどして、子どもが普通に授業を受ける権利が侵害されている」といった旨のコメントがされています。
このあたりは何を合理的配慮とするかによってくるんですが、例えばタブレットを導入するとか、メガネをかけるとか、補聴器をつけるとか、そういったその子自身だけの問題であれば、異論もないんでしょうが、コメント欄にあるような「声をあげる」といった問題に対してはどうすればいいんでしょう。
②については、ようは、「結局は、合理的配慮が何かというのは個別具体的にしか判断できないが、それゆえ、その判断基準は各学校ごとでブレが生じ、時には他の生徒の権利を侵害することもあり得る」といった問題ですね。
発達障害児とはおおざっぱに言えば、個人の能力の中の凸凹が大きい状態です。
得意不得意は誰にでも存在するものです。誰でも違った凸凹を持ちます。
とブログでも書かれていますし、僕もここまでで書いていますが、障がい者というのは、ただただ国が認定した「能力の凹凸が大きい人」というものでしかなく、明らかに、そこから外れてはいるが、支援を必要としている子どもたちもいます。
そして、その子どもたちへの配慮はどうなるんでしょうか。どの子たちにも教育を受ける権利はあるし、合理的な配慮を受ける権利もあるはずです。
国の予算は限られています。
財務省は教員の人数を減らそうとしているぐらいです。
確かに文部科学省は理想論を掲げ、きめ細やかな配慮を現実のものとするよう、政策を進めていこうとするでしょう。
しかし、そこに大きく横たわるのは根本的な予算の問題です。
誰かを助けるためには誰かを見捨てなければなりません。
新たに何かを実現するためには何かを諦めなければなりません。
見捨てられた誰かはどうなるのでしょう。
見捨てられた誰かは、助けられた誰かを「ズルい」と感じないのでしょうか。
目指すのはあらゆる多様性の尊重とそれらへの配慮なのでは?
「部落差別を撤廃しろ!」「女性の権利の保障を!」という個別的な主張を聞くたびに思うんです。
撤廃するのは「部落差別」ではなく「あらゆる差別」なのでは?
保障するのは「女性の権利」ではなく「あらゆる人間の基本的人権」なのでは?
僕たち人間社会のゴールというのは、それぞれがあらゆる面で違っていることを尊重し合うことだと思うんです。
つまり、「〇〇を差別するのは良くない」といった場当たり的な主張をするのではなく、「そもそも人というのはみんな違う。けれども、誰もが基本的人権を有している」という普遍的な事実を浸透させることこそ必要なのではないでしょうか。
紹介してきたブログではこのような記述もありました。
支援学級に通う小学3年の息子は、数学検定3級(中学3年程度)を取得し現在高校数学を学んでおりますが、学校では小学3年の算数の授業を受けています。支援学級であっても学習指導要領以上の学習を教える義務は学校にはありませんから。(学校によっては支援学級では配慮をしてくださるところもあるそうです。)
子どもには授業を受ける権利もあれば、受けない権利もあるはずです。
「受けない権利」というのは無制限に認められるものではありませんが、それでも数学検定という公的性質を持った認定試験により、中学3年程度の知識を持っている子どもに、週に何時間も小学3年生の授業を受けさせるのは、彼(彼女)の時間を無為に奪っているだけです。
もし、彼(彼女)が「自習がしたい」と訴えるのであれば、それは認められるべき主張です。
週に4時間だとして、1年が52週ですから、単純計算で208時間。日数で換算すると8日を越えます。
彼(彼女)は1年間で8日間も、退屈で堪らない授業を受けていることになります。
再度書きますが、僕たちのゴールは誰かを障がい者として認定することでもなければ、障がい者として認定されている人たちのみに配慮することではありません。
僕たちは違う人間である以上、その能力・嗜好・思考には差異があり、誰しもが基本的人権を持っています。
そして、それを保障することこそがゴールであるはずです。
理想論と現実論
理想論を語るならば「あらゆる人間の基本的人権を尊重することがゴール」であるし、現実論を語るならば「リソースは有限であるんだから、公的機関が配慮するのにも限界があり、そこに不公平感が生まれるのは仕方がない」というところに落ち着くと思います。
まとめ
ここまでかなり勢いに任せて書いてきたので、結局何が言いたいかが自分でも分からなくなってきました。
僕たちの戦いっていうのは上にも書いたゴールに辿り着くまでは終わらないんですよね。「障がい者への配慮がなされるようになった!」と喜ぶのではなく、「どこを落としどころにするか」でしかないんですよ、理想が達成されていない以上は。
「本当はもっともっと配慮を必要とする子はいるけど、今はここで満足するか」って感じなんですよね、個人的には。
でも、権利を求めてきた当事者としては、やっぱり社会全体の理想が達成されていなくとも、自分たちの権利を勝ち取ることができればそれでいいのかなとも思います。
まあ、ひとりの空気が読むことのできない三十路間近の男の戯言だと思ってください。
ではでは。