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雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。

体は社会人、心は自由人。三十路間近のネコ好き。日記や日々考えたこと、社会問題、ときどきサッカー。

「真夏の通り雨」の解釈と感想:雨が止まないのに渇きが癒えない

雑談

雨の日の地面

先日、宇多田ヒカルさんの朝ドラの主題歌にもなっている「花束を君に」の感想を書きました。

今日は、その両A面(言い方古い?)となっている「真夏の通り雨」の感想を書いていきます。

※2016年10月22日一部追記しました。

 

こちらの歌は「花束を君に」とは一転、女性目線で愛する人の死を受け入れられていない様が描かれています。

 

それが端的に表されているのが「サヨナラ」という書き方。

 

サヨナラに込められた意味

「サヨナラ」と、ここだけカタカナで書かれています。ここは主人公が「さよなら」というものを認識できていないことを示しています。

 

『実際には彼はもういない。そういう意味では「さよなら」した状態だ。でも、私の心の中には彼はいるし、夢でも鮮明に見てしまう。さよならしたいのに。・・・本当にさよならしたいの?・・・違う。本当は忘れたくない。忘れたら私が私じゃなくなる。じゃあ、さよならってどうすればいいの?忘れることが「さよなら」なの?「さよなら」って何?・・・サヨナラって何?』

 

という心の葛藤が見えてきます。

 

歌詞の解釈

夢の途中で目を覚まし

というのは、文字通り、眠っているときに見る夢のことを指しているのか、「あなたとの幸せな未来」を指しているのか。

もしくは、その両方を指しているのかもしれません。

 

瞼閉じても戻れない

とは、「夢の続きを見るのは難しい」とも取れますが、それよりは「もうあなたと過ごすはずだった未来は訪れない」と解釈したほうがよさそうです。

 

汗ばんだ私をそっと抱き寄せて たくさんの初めてを深く刻んだ

ということで、深い男女の関係であったことが示唆されています。*1

 

揺れる若葉に手を伸ばし

とありますが、ここでは文字通りの若葉ではなく、「若い男性」もしくは「新たな恋」っていう感じでしょうか。

ただの若葉ではなく、揺れる若葉なので、後者のほうがしっくりきますね。

この曲の主人公はあなたがいなくなってしまった、この鮮明ではない世界において、なんとか新たな恋を始めようと思ってはいるけど、あなたのことを思い出すとやっぱり悲しい。いつになったら悲しくなくなるのだろう。

 

勝てぬ戦に息切らし

あなたに身を焦がした日々

忘れちゃったら私じゃなくなる

教えて 正しいサヨナラの仕方を

この部分はなんだろうなー。「勝てぬ戦」っていうのは何を指しているんだろう。

「忘れちゃったら私じゃなくなる」というのはその通り。

人間は苦しい思い出や辛い思い出を忘れることで生きていけます

ここで逆に「楽しかった思い出を忘れたい」ということかもしれません。

そうすれば悲しみから解放されるから。

でも、そうしちゃうと私が私でなくなってしまう

なぜなら、身を焦がすほどの日々=あなたが私のすべてだったから。

 

変わらない気持ちを伝えたい

自由になる自由がある

立ち尽くす 見送り人の影

「自由になる自由がある」っていうのは自殺をほのめかしているんでしょうか。

「立ち尽くす見送り人の影」っていうのは主人公のことかな。

「立ち尽くす」っていうことは、主人公はあなたが死んでからずっとその場で動けずにいるってことでしょう。

見送っているけど、見送り切れていない、みたいな。

影があるってことは、今はまだ生きている証。

 

降り止まぬ 真夏の通り雨

通り雨なのに降り止まないっていうことは、「立ち尽くす」という表現と合わせると、時間が止まっているっていう感覚でしょうか。

 

木々が芽吹く 月日が巡る

と対比して書かれていますね。

時間が止まったままであることを強調できています。

 

ずっと止まない 止まない 雨に

ずっと癒えない 癒えない 渇き

雨が降っているのに、渇きが癒えないという対比がまたすごいし、分かりやすい

主人公の「渇き」がすごく強調されている部分だと思います。

 

夏の終わりの長い雨

夏の雨と聞くと、GARNET CROWの「夏の終わりの長い雨」を思い出してしまいます。


GARNET CROW - 夏の終わりの長い雨

これも「真夏の通り雨」と同様、喪失感から身動きが取れないことを歌っています。

揺さぶりかける現実も実体のないシアワセのパレード

欲しいもの位わかってるけど

ありふれた温もりを感じる術がない

というところは、「真夏の通り雨」とすごく似ていると思います。

 

シアワセというものが何なのか分からず、確かにそれっぽいものは現実世界にあるんだろうけど、自分にとってはそれは実態のない、目の前を通り過ぎていくだけのパレードである。

また、自分がどうすればいいかは分かっているけど、その術がない。


ただ、「真夏の通り雨」との違いは、

いつまでも終わることない禅問答ハマル連鎖式

なんでまた前に進むべきなんて思ってしまうんだろう

夏の終わりの長い雨

いつかは晴れると知ってるのに

忘れたくない何もかも流すようで

軽い眩暈すら覚えてる

というところで、こちらは今の悲しみなり喪失感を受けて入れているんですね。

「真夏の通り雨」のほうがまだもがき苦しんでいるのに対して、「夏の終わりの長い雨」のほうは

「雨が止むときには私の忘れたくないものも洗い流されていることでしょう。それならば、雨なんて降り続けててもいいんじゃないかな」

と受け入れている風に読み取れます。

 

感想

こちらは「花束を君に」とは対照的に作られています。

その曲調もそうですし、歌詞もまたしかり。

喪失感をもっとも表しているのが「雨は止まないのに渇きが癒えない」という表現とその歌い方。

これができるのは宇多田ヒカルさんだけではないでしょうか。

「花束を君に」とは違った良さが感じられます。

 

あとがき

宇多田ヒカルさんの母である藤圭子さんは2013年にお亡くなりになられましたが、この歌はその母を想った曲である、という解釈を見ました。

それを見ると、「あー、確かに」と腑に落ちる部分も多くあります。

「揺れる若葉に手を伸ばし」というのは、宇多田ヒカルさんのお子さんを指しているんでしょう。

「あなたに思い馳せる時」と続いてまして、これが「新しい恋愛」とかであれば、「新しい恋のことを考えながら、昔の恋人を思い出すのかな?」っていう解釈になるんですが、自分としては違和感があったんですよね。

 

しかし、「揺れる若葉=子ども」と考えると、子どもにとっては藤圭子さんは祖母に当たるわけですから、子どもに手を伸ばしながら、自分の親に思いを馳せるというのはごくごく自然なことです。

こうやって考えると、「花束を君に」も母へ向けた歌だという解釈もできますね。

 
以上、本日もあめおど管理人がお送りいたしました。

*1:追記:宇多田さんが母のことを思ってこれらの歌詞を書いているという発言もありますし、この部分も母と子のやり取りを表現しているのかもしれません。ただ、「あなたに身を焦がし」、「思い出が乱暴に掴んで離さない」といったところから、親子というよりは男女の関係を示唆しているほうが個人的にはしっくりきます。宇多田さんが母親のことを思って書くということと、この歌詞のモチーフに男女の関係を選択するということは矛盾するものではなく、むしろアーティストであるならば、動機となっているものを直接的に描くよりは、動機となっているものをいかに芸術的に、普遍的に表現するかというところに力を入れるはずなので、そういう意味でも全体として男女の関係を表現している歌だと解釈しています。