制度の前提から外れた人をどう救うか
今日はこんな記事を読んだ感想とかを書いていきます。
僕たち人間は、それぞれが違った人間であり、誰一人として同じ人間はいません。
そして、誰一人として同じ家庭環境の人もいません。
この社会には多くの「誰かを助けるための制度」が溢れています。
例えば、障がい者の方を雇用すれば補助金がもらえる、とか、医療費の負担は3割まででいい、とか。
しかし、条件に当てはまったからといって、即座にその制度の恩恵を受けられるかというと、そういうわけではありません。
なぜなら、嘘をついて、その制度の恩恵を受けようとする人がいるからです。
生活保護の不正受給などは最たる例ですね。
医療費の負担の制度であれば、健康保険証を忘れてしまうと基本的には10割負担となってしまいます。
少し前には「戸籍がない人がいる」という、フツーの生活を送っている人からは信じられないようなこともニュースで報じられました。
そして、今、日本にある制度の根本には、「戸籍がある」ことを前提としているため、なかなかそれらを利用することができないようです。
そして、最初に紹介したブログの話に戻ると、彼(彼女?)の親が協力的ではなく、様々な制度を利用することができないようです。
まず、「親が子供に何もしないこと」により以下の二つが出来なくなる。
- 親の所得証明ができない。
- 保証人がいない。
また、私の通う東北大学においてはこれにより以下のことが出来なくなる。
- 授業料免除申請
- 貸付型奨学金の申請
- 住居の借入
授業料免除申請においては親の所得証明が必要である。これは、親が子供を扶養するだけの十分な収入があるかどうかということを判断するために必須である。よってこれが証明されない限りは、授業料免除申請の書類の必須事項を埋めることが出来なくなり、授業料免除の申請を受け取ってもらえなくなる。「親が何もしないこと」により、その所得証明を発行してもらえない。
世の中にはズルをする人もいるので、制度を利用する人に対して、その証明を求めるような一定の手続きを要求することは当然と言えば当然ですが、あくまでもその手続きが大きな負担を強いるものであってはならないと思うんですね。
そして、上記のような「親の所得証明書を提出する」というのは、99%の家庭にとっては負担ではないかもしれませんが、ブログ主さんのような家庭環境だと、それが一転、不可能なことになってしまいます。
社会を円滑に回していくには、かかるコストを考えないといけません。
いくら優れた制度であっても、その維持に莫大なコストがかかるのであれば、現実的なものとは言えません。
一方、コストを意識すると、基本的には画一的な方向に向かっていきます。
一人一人のサイズに合わせて服を作るよりは、SMLという規格を作り、それに合わせて工場で生産したほうが効率が良いですからね。
手続きもそれと一緒で、例外を多く想定するほど、手続き過程が煩雑になっていきます。
タイトルにある「制度から外れた人をどう救うか」ですが、制度から外れていない人がいかに我慢できるかにかかっていると思います。
結局、制度から外れた人に対応するには、個別に対応していく必要があり、そのための人件費等が余分にかかってしまいます。ひとつの例外を認めたために、多くの例外ケースに対応していくこととなります。
また、ひとつの制度において例外を認めれば、他の制度においても「例外を受け入れてほしい」という希望は強くなるでしょう。
そして、これらのように余分にかかる(=これまでかからなかった)人件費を生み出すために、何かを諦めなければなりません。
でも、それはたぶん多くの人にとっては「ちょっと不便になったな」ぐらいのものだと思うんですね。
その「ちょっと不便になったな」をいかに許容していくか、ってことですね。
結局は魔法の杖なんて存在しない以上、限られたリソースで対応するしかありません。
そうするためには、画一的にしていくほうが効率は良いですが、そうすると例外事項に対応できないケースも出てきます。
そんなときは、何かを諦めることでリソースをひねり出し、対応していくしかありません。
僕はブログ主さんのような方を見ると、ブログ主さんのような事情を知るとこう思います。
自分は運が良かった、と。
裕福ではないながらも「両親が何もしてくれない」というほどではないし、虐待とかを受けていたわけでもない。
でも、自分は運が良かっただけなんだ。
どこかで何かが起これば、自分がブログ主さんの立場になっていたかもしれないし、もしくは将来、何かの場面でブログ主さんのような状況に陥るかもしれない。
使われすぎて腐っている言葉かもしれませんが、「助け合い」なんですよね。
この「助け合い」というのは、「恵まれている人が、そうではない人を助ける」ではなく、「誰しもが何かで困ることが出てくるから、そういうときはそのときに余裕がある人が助けましょう」ということです。
制度の前提から外れた人をどう救うか。
結局、「助け合い」という答えになっているようでまったく答えになっていないところにたどり着いてしまいましたが、真実というものは意外と身近にあるものかもしれません。