雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。

体は社会人、心は自由人。三十路間近のネコ好き。日記や日々考えたこと、社会問題、ときどきサッカー。

カンニング竹山さんのしたデリケートな話と人の抱く感情について

リゾート地の海かな

ブログやらtwitterやらが広まり、自分の意見を主張する機会というのが昔に比べて格段に増えたと感じています。

だからこそ「一般人が炎上する」ということもあるんでしょうが、そんななかで「人が人の感想を否定することがいいのかどうか」という話を目にしたので、僕の思いを記事にしてみました。

 

(※「まとめ」だけ読めば言いたいことは書いてあります。)

 

「感情」の存在は否定できない

僕たちは頭で考えて行動するのが普通ですが、その行動の源泉となるのは紛れもなく「感情」です。

 

好き、嫌い、ほしい、いらない、好感が持てる、不快だetc…

 

そういう感情を抱くからこそ、「〇〇を手に入れたい」、「〇〇は避けたい」という行動基準が生まれ、そのために論理的に頭で考え、行動していくわけです。

 

僕たちの行動の元となる「感情」についてですが、湧いて出てくる感情の存在自体は誰にも否定できません

「〇〇って嫌だな」っていう思いは、その思いが適切であるか否かに関わらず、そこに存在しているという事実そのものは否定できませんし、そう思ってしまう人を攻撃しても、何かが解決するわけではありません

 

感情ってすごく扱いが難しく、それは論理的思考の前に発生してしまうものなんですよね。

だから、「〇〇を見ると不快に感じるけど、なぜそう感じるのだろう」という疑問が生じてしまうわけなんです、自分の感情であるにも関わらず。

 

なぜ人はゴキブリを必要以上に恐れるのか。

これもよく考えると分からない話です。

僕たちはゴキブリといっしょに暮しているだけで死んでしまうことは(たぶん)ありませんし、言ってしまえばビジュアル的にはカブトムシなんかとそう変わるものでもありません。

これについては「人間の先祖が、過去にでっかいゴキブリに襲われたから、そのときの名残だ」という説明なんかも聞きますが、結局、「ゴキブリを恐れるのは、遺伝子的にそうなっているから」という意味のあるようなないような答えでしかありません。

 

テレビで死者のエピソードをおもしろく話すことについて

カンニング竹山さんが親友である前田健さんのお葬式での話を、すべらない話という番組でおもしろく話したということについて、まずはこちらのブログを紹介します。

頭の中で「不謹慎な!」みたいに、即「こういう理由で笑えない」っていう答えも出ない笑えなさなので「けしからん!」的な怒りでもなくて、笑えない自分とテレビの中の大爆笑のチグハグさにただひたすら「なんだ?なんだこれ??」って戸惑う感じになったんですよ。

という感情から、なぜ自分が笑えないかを分析し、記事にされています。

また、このブログの中ではこうも書かれていました。

私はそういう現状が嫌だと思ってるほうなんで、この話をすべらない話で「男同士の愛笑えるでしょ」って意味合いのまま放送されてるのを観て、相変わらず「テレビはセクシャリティがノーマルではない人のことは笑いものにするぞ」って姿勢だなぁ、と思いました。

 

これについて、こちらのブログで反論がされていたので紹介します。

ポリコネポリコネ。
ポリティカルコレクトネスを盾にすればどんな意見も許されるのかねぇ……。

故人との関係を知らないのは構わないが、笑いのポイントすら勘違いした上で、誰ひとり得しない「正しさ」を持ち出し、わざわざ「笑えなかった」と書くのはどういうことなのか理解に苦しむ。

故人の意思というならあの現場の、竹山本人が一番わかってる。

それを笑いで昇華することが故人への供養になると思うから話したんだろう。

 

他人の感想を否定することについて

「カンニング竹山さんの背景も知らずに、勝手に不快に感じるなんていけない!誰も幸せにならない!」という主張も分からなくはないんですが、今回の話は「死者」、「LGBT」っていう扱うのが難しい2つの要素が絡み合っていて、背景を知らずに見た人が不快に感じることも仕方ないと思いますし、むしろ視聴率の低くはない番組でそんなチャレンジングな話題を扱うなら、その背景も含めて話すほうが望ましいのかなって思いました。(それは編集でカットされたのかもしれませんし、竹山さんがそこまで思い至らなかったのかもしれません)

 

僕たちはそれぞれが異なるバックグラウンドを持っていて、それぞれが違う人生を生きているんだから、同じものを見ても違うことを感じるということはざらにあります

それは感覚の違いによるものかもしれないし、知識の違いによるものかもしれません。

 

いずれにしても、同じものを見て同じことを感じることなんて極めて稀だし、99%がおもしろいと思っても1%がつまらないと思ったこと自体は否定できません。

そういう意味で誰かの感想を否定するのはどうなのかなって思うんですが、もっと大きな視点で捉えると誰かの意見を否定したいという思いもまた、そこにあるのは事実なんですよね。

 

他者の「感想」を否定することについてはこちらのブログで

あるコンテンツへの「感想」について、いろいろ思う人がいるのは当然のことです。

でも、自分が気に入らない感想だからといって、書いた人を「思うな」「書くな」と恫喝するべきではない。

それが炎上商法とかではなくて、書いた人の「本心」から出たものならば。

と書かれていますが、「書くなと言いたい」気持ちもまた真実であり、どうしてもそうしたい思いがそこにはあったんじゃないかと思うんですよね。

 

僕個人としては個人が個人を批判する分には、いくらでも受け入れられるべきだと思っています。

「書くな」ということを強制する権利は誰にもないものの、「「書くな」という思いを表明する」権利はあると思うんですよね。

(こういうのが難しいのは、同じことをしていても集団対個人になると一気に暴力性が増すところです。したがって、「個人が個人を批判する分には」というかたちで限定しています)

 

「分かり合えない」からこそ歩み寄る必要がある。

ということで、fujiponさんを少し否定してしまった部分もあるんですが、本当に紹介したかったのは次の部分なんです。

僕だって、LGBTのことがわかるのか、当事者の気持ちがわかるのか、と問われたら、「わかる」なんて口が裂けても言えない。

ただ、そこで「わからないことを認めたうえで、お互いが生きやすいように気配りをする。少しでも歩み寄ろうとする」ことを捨てたくないのです。

僕だって分かった顔して話しているように思われるかもしれませんが、僕が分かっているのは「人の気持ちなんて分かんない」ということです。

だからこそ、お互いがなぜそのように感じたのかを理解し、歩み寄っていく必要があるんだと思います。

 LGBTなんてひとくくりにしてもカズレーザーさんのようにそれを堂々と公言できる人もいれば、声優の三ツ矢さんみたいに「家族に迷惑がかかるかもしれないから」という考えから今まで名言を避けてきた人もいます。当然、周りの目を気にして死ぬまで隠して生きていく人もいるでしょう。

これは障がい者でも同じで、障がい者全員が24時間テレビに好意を抱いているわけでもなければ、全員がうっとおしく思っているわけでもありません。

なぜなら、LGBTである人も障がい者である人もひとりひとり違った人格を持っているからです。

だからこそ

「わからないことを認めたうえで、お互いが生きやすいように気配りをする。少しでも歩み寄ろうとする」

必要があるんだと考えています。

 

 

そして、びっくりするような同じようなタイミングで、まったく違う話題で、違う人が、同じようなことを書いていたのでこちらも紹介させていただきます。

公共の場での授乳がいいのかダメなのかという話についてですが

これ、掘り下げても掘り下げても答えが出ないことなんですよね。

施設側が「授乳は公共の場ではしてはいけません」と明言することも恐らくはできないし、不快に思う感情ゆえに他人の行動を個人が制限することもできないから。

対立しても良い結果は産まない。

ネット上でも「子供のいない人にはわからない」という声が上がっていたり、不快に思う方がおかしいんだろうとか、いろんな不穏な意見が飛び交ってる。そんなの飛び交う中で、でも実際はリアルの世界の中でみんな共存していくしかないわけで。

じゃあどうすればいいんだろうっていうと、折り合うしかないんです。

公共の場で授乳するのに驚いたり、それを不快に思うのはだれに制限されることもない自然なその人の感情だと私は思います。

嫌なものは嫌だ、それは仕方ない。

でもその感情を理由に「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。

ということで、カンニング竹山さんについての記事をいくつか読み、授乳に関する賛否の記事を読み、自分の中で「ビビビ!」と来たものがあったもので、僕もこんな記事を書かせていただきました。

 

まとめ

僕たちは人間ですから、何かについて何かを思ってしまうのは仕方ないんです。

ただし、感情について話し合うとき、感情的になってしまってはダメなんですよね。

自分の感情について(相手の感情についても)そこから一歩引いて論理的に考えていく必要があるんです。

 

「なぜこの人はこう思ってしまうんだろう」ということを冷静に考えて、聞き取って、共感できれば共感し、できなければ「そういう人もいるんだ」と理解する必要があるんですよね。

 


僕はブログを書くモチベーションとして、「この記事を読んで何か感じてくれたら嬉しい」というのがあります。

この記事を読んで何か感じていただけたら、書いた甲斐があったというものです。
何も感じていただけなかったら、僕の伝える力はまだまだ未熟だということです。

 

以上、本日もあめおど管理人がお送りいたしました。