「やらない善よりやる偽善」という言葉は投げ捨ててしまおう
先週からの地震によって熊本のほうで多くの被害が発生しています。
こういう大災害のときによく出てくる言葉がこちら。
やらない善よりやる偽善
今日はこのことについて記事にしていきます。
ことばの意味
この言葉の由来などは知りませんが、おそらくは次のようなことを指していたんだと思います。
「本当に被災者のことを思って行動しなくとも、結果的に被災者のためになる行為の方が、何もしないよりはいい(行為の動機がなんであれ、結果が良ければいい)」(あめおど管理人の頭の中から)
ヤフー知恵袋ではこういう意見を見ました。
そういう意見に対して、「たとえそれが偽善でも、自己満足であっても、パソコンの前から善人ぶって人の行為を批判するだけで何もしていないやつよりはましだ」という反論が生まれたのです。
そもそも「やらない善」って何?
こうやって書いていて思ったんですが、上記のことを表現するのに
【やらない善よりやる偽善】って表現、間違ってますよね。
だって、↑で言っているのはあくまでも
「何もしない行為」と「やる偽善」の比較であって
「やらない善」と「やる偽善」の比較はしていないんですもん。
改めてそれぞれを定義づける
そうすると、考えないといけないのは
- 何もしない
- やらない善
- やる偽善
の比較ということですね。
ここでは「やらない善」とは『相手のことを思って、あえて「やらない」という選択をすること』と定義しておきます。
「何もしない」は文字通り何もしないことを指します。
「やる偽善」は『その動機が自分本位なものである行為』を指します。
「やらない善」の大勝利
そうすると、結論的には以下のようになります。
- 複雑な問題:やらない善>何もしない>やる偽善
- 簡単な問題:やらない善>やる偽善>何もしない
なぜこのような結論になったかについて説明します。
「やらない善」と「やる偽善」の相違点はその動機にあります。
「やらない善」というのは相手のためを思って思考した結果、「やらない」という選択をしたということ。
「やる偽善」というのは自分の欲求に従って、「やる」という選択をしたということ。
これらを比較すると、明らかに「やらない善」のほうが良いです。
なぜかというと、やる偽善が自分本位の行為であり、やらない善は相手あっての行為だからです。
例えば、発災直後、人命救助が優先される現場に、急を要しない(1日遅れてもいい)食料を届けるために車で物資を運び、渋滞を引き起こせばどうなるでしょう。
人命救助は時間との勝負です。発見が早ければ早いほど生存確率が高くなります。
そうやって考えると、自分の中の「物資を運びたい!」という欲求に従うのではなく、本当に被災地のことを考え、「動かない」といった選択を取ったほうが正しいです。
やはり「やる偽善」のように動機が自分本位なものである場合、その行為そのものが目的となってしまい、本当の意味での支援はできません。
一方、相手を思っての行為というのは、文字どおり相手のことを考えて行動するわけですから、様々なことを総合的に考えてなされるんですよね。
こういう点を考えると、「やる偽善よりやらない善」のほうが圧倒的に正しいです。
また、問題が複雑な場合は「やる偽善」よりも「何もしない」ことのほうがより良い選択になります。
確かに、電車で妊婦の方に席を譲るとか、溝にはまった車を助けるっていう事案であれば、「やる偽善」のほうが「何もしない」よりも良いです。
しかし、数々の要素が複雑に絡み合った事象について、「自分はこうしたいんだ」という欲求のみを根拠に動いてしまうと、事態が悪化したり、新たな被害を発生させることすらあります。
まとめ
こういう災害が起こるたびに思うのは、「動くことだけが支援じゃない」、「募金は地味だが効果的」ということです。
何かをすることが必ずしも良いわけではないですし、地味な行為こそが助けになることがあります。
わざわざ遠くから物資をトラックで運ぶよりは、その時間、アルバイトをして、それで得たお金を募金するほうが効果的、とも言われます。
これからは「やる偽善よりやらない善」が広まっていけばいいな。