雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。

体は社会人、心は自由人。三十路間近のネコ好き。日記や日々考えたこと、社会問題、ときどきサッカー。

「加害者の当事者意識」よりも「被害者の当事者意識」を知ることのほうが大事

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先日書いたこちらの記事の続きで、「加害者の当事者意識」と「被害者の当事者意識」について書いていきます。

 

「加害者の当事者意識」とは

「加害者の当事者意識」がどういうものを指すかというと、こちらのブログが分かりやすく紹介してくれています。

わたしは当事者なので当事者として語っています。つまりわたしの民族が国土を共有するアイヌの方々を不当に辱めているということについてです。アイヌ差別はアイヌの問題ではなく、アイヌを軽んじ、不当に虐げている和人の、わたしたちの問題です。

ということで、つまりはマイノリティに対する差別というのは、社会的にマジョリティから行われており、そのマジョリティに属している者はみな、「加害者」であり、その当事者意識を持って、問題に取り組んでいくべきである、という話です。

 

この話については、「確かにそうだ」と思います。

どこまで自分が加害者としての当事者意識を持てるかは分かりませんが、「自分が気づいていないところで、自分が属している社会が誰かを苦しめることがある」ということを意識することは大事なことだと思います。

 

「被害者の当事者意識」とは

次に説明するのは「被害者の当事者意識」についてです。

困っている人を助けるという観点において、被害を受けている方が何をどう感じており、どう救ってほしいのかを知る必要があります。

この「被害者の当事者意識」に欠けた支援はあくまでも「偽善」であったり、「おせっかい」という言葉で処理され、ときによっては状況を悪化させることすらあります

 

当事者ではないにしても、「当事者だったらどう感じるだろう」ということを考え、「当事者に話を聞いてみよう」と行動することもときには必要かと思いますね。

 

「被害者の当事者意識」を持つことは難しい

「どう救ってほしいのかを知る必要がある」とは書きましたが、これが本当に難しい。

 

最近だと、24時間テレビの裏でNHKが放送したバリバラが話題になりました。

こうした「笑い」の要素を織り交ぜながらも、番組全体を貫いていたのは「感動ポルノ」というキーワードだ。自身も骨形成不全症を患いながら、オーストラリアでコメディアンとジャーナリストとして活躍したステラ・ヤングさん(1982~2014年)が唱えたもので、障害者を、非障害者などが感動するための「モノ」として扱うような行為を指す言葉だ。

番組によれば、これら「感動ポルノ」的な障害者の番組について、当の障害者の90%が「嫌い」と答えたという

(2/3) 「24時間テレビ」は障害者の「感動ポルノ」 裏番組のNHK生「バリバラ」に大反響 : J-CASTニュース

 

当然、24時間テレビは障がい者の方を支援する目的で作られていると思います。
少なくとも、企画の当初はそうだったでしょうし、今でも末端の人たちはそういう思いで制作に携わっているでしょう。

僕自身も24時間テレビは好きではありませんでしたが、こんなにも当事者である障がい者の人たちが嫌っているとは思いませんでした。

 

24時間テレビに関わっている人もこれは予想外だったんではないでしょうか。

 

正直、「差別」とかの問題って、ものすごーく難しいんです。

何が難しいのかというと、何にどう困っていて、どう支援してほしいかが分からないからなんですね。

さらには、人によっても違うかもしれません。

自身の障がいをひとつの個性として扱ってほしい人もいれば、それについては触れてほしくない人もいるでしょう。

そして、日本の社会はどちらかというと後者へ配慮しているように見えます。

 

まあ、責任問題として「健常者がわざわざ障がいに触れて、障がい者を傷つかせる」のと「健常者が何もせず、障がい者が傷ついていく」のであれば、前者のほうが罪は重いと考えられそうですもんね。

 

「被害者の当事者意識」を無視した支援は自己満足

ただ、そうであったとしても僕たちは「加害者の当事者意識」を持つ前に、しっかりと「被害者の当事者意識」を持つべきです。

なぜなら、被害者の想いなくして支援はなく、被害者の想い無視した行いは自己満足だからです。

 

特に「加害者の当事者意識」だけ、強く持っているような人は要注意。

なぜなら、その加害者としての自責の念が強くなり、「何か支援をしたい」、「何か動かないと」という思いが強くなり、前の記事で書いたアイヌ民族へのヘイトスピーチ(ではないんですが)について、

こういう嘆願書まで出してしまうようになるからです。

 

この嘆願書を見て、アイヌのクオーターの方はこのように書いています。

この嘆願書を出すことで、誰がどうやって幸せになっていくんでしょう。

 

まとめ

はっきり言って、人ってそれぞれ違います。

何に傷つき、何を求め、何を感じ、何がしたいか。

自分は誰かではないし、誰かは自分ではありません。

「自分だったらどう感じるだろう」と考えることは無益ではありませんが、それだけを根拠に動くとその思い込みは途端に有害なものへと変わってしまいます。

「加害者の当事者意識」を持つことを否定はしませんが、それよりも大事なのは思い込みで動かず、本当の意味で被害者の気持ちを理解し、支援をしていくことだと思います。

※そうは言うものの、何をどうしようが、どんなことをブログに書こうが、それは個人の自由なので、紹介したブログの方が意見をブログに書いたり、嘆願書を出したりする自由はあると思っています。

 

以上、本日もあめおど管理人がお送りいたしました。