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自己責任論を振りかざす人は人生における「運」の割合を誤解している

赤ちゃんとパソコン

記事のタイトルは『自己責任論を振りかざす人は人生における「努力」の割合を誤解している』でも通じます。そんな記事。

 

自己責任という言葉が日本でここまで広まったのは、イラク戦争のときだったのかと思います。

2004年4月にイラクで起きた、「日本人人質事件」のことを覚えているだろうか。

イラク支援のため現地に入った日本人3人が、ファルージャの街で地元の武装グループにより人質として拘束された。彼らの要求は「自衛隊の撤退」だった。アメリカが主導し2003年に開戦したイラク戦争。当時、日本政府はこの戦争を支持し「人道復興支援」のためとして、イラクに自衛隊を派遣していた。3人は数日後、無事解放されるが、帰ってきた日本では、3人の行為が国に迷惑をかけたとして「自己責任」を問う批判の声が高まっていた。

映画「ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件...そして」 自己責任批判から10年、28歳の伊藤めぐみ監督の視点

僕自身、彼らがなぜイラクへ行ったのかは覚えていませんが、このような事件が起きるたびに「自己責任」という言葉をテレビから聞きますよね。

子どもだったから知らないだけかもしれませんが、この事件をきっかけに「自己責任」という言葉が日本で市民権を得たと、なんとなく認識しています。

 

この「自己責任」という指摘が的を射ることもありますが、今の日本はそれが行き過ぎている気がしています。なんでもかんでも「自己責任」で片づけるのは楽ですが、世の中は白と黒ではっきりと分けられるものではありません。むしろ、グレーであることのほうが多いでしょう。

 

自己責任論を振りかざすということは、逆をいえば、努力すれば確実に報われるということです。

さて、そんなことがこの世の中にあり得るでしょうか。


僕たちが生きている社会の中で、「運」は非常に大きな要素となっています。

 

大学受験で成功するか失敗するか、希望の会社に就職できるかどうか。

さかのぼってみれば、小学校、中学校でどんな友達と出会い、どんな先生と出会うのか。

どんな家庭に生まれるのか。

どんなDNAを持っているのか。

これらすべて、自分の努力では何ともしようがないことばかりです。

 

大学受験や就職活動は努力の部分もなくはないですが、それも結局は高校生までにどんな環境で育ったか、どんなDNAを持っているかが大きく左右するでしょう。

両親が高卒の家庭に生まれ、「大学へ行く意味などない」、「勉強などしても役に立たない」と幼いころから言われ続け、それを真に受けてろくに勉強せず、フリーターとなって苦労している30代の人にはどんな罪があるのでしょうか。

 

どこまでが自己責任なのでしょう。

 

また、大学受験で例えれば、100人が合格する大学に入った人の中で、もう1回受験して、再び合格する人はどれぐらいいるでしょうか。

倍率にもよりますが、100人中100番で受かった人はかなり危ういでしょう。90番ぐらいでも微妙なラインです。30番~50番ぐらいなら盤石と言えるかもしれませんが、それでも試験をやり直せば3割ぐらいは入れ替わるんじゃないでしょうか。

じゃあ、その3割の人と落ちた人の差はいったいどこにあるんでしょうか。

 

上の方で、「自己責任論を振りかざすということは、逆をいえば、努力すれば確実に報われるということです。」と書きましたが、では、努力するのに才能は必要ないのでしょうか。

努力できる人、努力できない人の差はいったいなんなのでしょうか。

気持ちの問題でしょうか。

じゃあ、その人が気持ちを強く持てるかどうかというのは、何によって、どう決定づけられるのでしょうか。

意思の強さは何によって決められるのでしょうか。


「すべては才能や周りの環境で決まるのだから、努力など意味がない」とか、そういうことを言いたいのではなく、「自己責任だ」と他人を批判する人がいかに恵まれているか、もしくは、いかに「運」が良かったかということを考えてほしいということです。

 

僕の家はどちらかというと貧しい家庭でしたが、親からは「高校ぐらいは行かないといけない」と言われ、たまたま近所にあったそろばん教室に通わせてもらうことで算数が得意になり、全体的に勉強そのものが好きになり、大学まで行くことができました。

少ないながらも友人にも恵まれ、大学では本当に楽しい4年間を過ごせたと思っています。

卒業後も給料は高くないですが、ブラックではないところに就職できました。

これらが自分の努力の賜物かというと、そういう部分もありますし、そうでない部分もあると思っています。

むしろ、勉強方面については比較的才能があるほうだと自覚していますし、友人に恵まれたのも、ただ単に運が良かったんだと思っています

 

思うに、想像力が欠如しているのでしょう。「もし、自分が同じような境遇に陥ったらどうだろう」このように考えてみれば、もう少し振る舞いに違いが出てくるのではないですか。

自己責任論で貧困者や仕事のできない人を差別する狂った世界 - ポジ熊の人生記

と書いている方もいますが、僕自身、秋葉原にトラックで突っ込んでいった加藤死刑囚の経歴などを見ると、自分が同じように育ったならば、どう成長したのだろうと考えてしまいます。

厳しい家庭環境で育ったからといって、そういう人たちの全員が殺人者になるとは思いませんが、僕が育ってきた環境と比較して、僕自身がそういう環境で育てられたら、また違った人間になっていたと思いますし、絶対、何があっても犯罪者になっていないかといえば、断言する自信はありません。

 

努力しない怠け者を擁護するつもりはありませんが、一方で、「自己責任だ」と一方的に非難することも間違っていると思います。

もうちょっと、優しくあたたかい世界になっていけばいいなという願いを込めて、この記事を締めさせていただきます。

 

★参考にさせていただいたページ★

 

以上、本日もあめおど管理人がお送りいたしました。